ようやく白み始めた空に、微かな鳥の鳴き声が響き渡る。

「送ってくれてありがと」
「おう。んじゃ、今日はゆっくり休めよ」
「うん」

窓越しに「じゃあね、お疲れ」と手を振ると、同僚である彼もにかっと笑って手を振り返し、車を発進させた。
エンジンの音と共に、車の姿が路地の向こうに消えた。

「――さてと」

じゃり、と音を立てては自宅のアパートを見上げた。
たった一晩空けただけなのに、何故か久しぶりに帰って来たような錯覚を覚える。

部屋に帰ったら、今日はもう、どっぷり寝よう。
シャワー浴びたいとか、軽く何か食べたいとかの欲求がない訳ではなかったけれど、それ以上に今は眠い。
幸い今日は仕事は休み。
というか、今日の休みを取る為に昨日、否、今朝まで頑張って仕事を片付けてきたのだ。
それに付き合ってくれ、あまつさえ自宅まで送り届けてくれた同僚には、本当に心底感謝している。
今ならホテルに一晩付き合ってやってもいい。…いや、嘘だけど。多分向こうも、うへえって言うだろうけど。
せめて今度、お昼ぐらい奢ろう。

何はともあれ、そんな私がこのままベッドに引っくり返ったところで、どこからも文句は出ない筈!

そんなことをつらつらと考えながら、エレベーターに乗ってボタンを押す。
軽い浮遊感。
寿命の近い電灯が、頭上でちかちかと瞬いている。
ついこの間管理人さんに言っておいた筈なんだけどな…いいや、また今度言いに行こう。

エレベーターが止まる。
目的の階に着いた。
微かな電動音と共に、開いた扉から一歩踏み出して、廊下を進もうとして、



…あれ?



一瞬目を疑う。
思わず近くの表札を見て、ここが目的の階であることを再確認してしまった。
うん、大丈夫だ。ここは五階だ。

…じゃあ、あれは、何だ。
私の部屋の前にあるような気がするんだけど…え、まじ、あれ何?

恐る恐る足を進めて、ソレに近付く。
近付くほどに、その黒い塊が紛うことなく自宅の扉の前にあることがわかってきて、更に不信感が募る。

そしてようやく、触れそうな距離まで来た時、

「え…ちょ、何で!?」

は文字通り驚愕して立ち尽くした。
何故なら、そこにある黒い塊は、

「……れ、ん」

良く知る幼馴染の姿だったから。





はそうっと蓮に近付いた。
黒い服を身に纏った彼は、今は宅の扉の前に陣取り、蹲るようにして座り込んでいる。
顔は腕の中に埋められていて窺えない。

「…うわ」

は微かに顔をしかめた。

何この匂い…お酒?
泥酔してる? あの蓮が?

…珍しい。
それが一番最初に浮かんだ感想だった。
の知る彼は、確かにザルでこそなかったけれど、そこまで弱い訳ではなかったから。
それに、彼は自分の許容量を知っているから、泥酔するほど飲まない。

「この時間ってことは、仕事帰りに来たのか…」

蓮の職場は確かにの家の近く。
たまに帰るのが面倒臭いとかで、夜中にも関わらずインターホンを鳴らしてくることもある。
うちは宿屋じゃねえよ!と何度か文句も言っているのだが、効いている様子は全くない。

とまあ、そんな彼の職業は。

「…ホストの癖に酔い潰れてどうするの」

は小さくため息をついた。





自分も寝れない。
どころか家に入れない。

こっちだって寝たいのは山々なんだぞー!と内心毒づきつつ、蹲った彼の肩を軽く揺さぶった。

「ちょっと、蓮ー。寝るならそれでもいいからさ、とりあえず部屋の中で寝ようよー」

無反応。

「蓮ー。れーん。ほら起きて、私も家入れないよー」

無反応。
これはもっと本格的に揺さぶるか、いやそれで気持ち悪いとか言って吐かれてもなァ、とぶつぶつ自問自答していると。

「…、う…」

ぴくり、とその肩が動いた。
思わず目を瞠って見つめると。
ゆっくり、本当にゆっくりとだが、酷く気だるそうな動きで、彼が顔をあげた。
気分が悪いのか眠いのかはわからないが、焦点が定まっていない。

「蓮」
「………」

名前を読んでやると、その焦点が徐々に合わさり、目の前にいるを映す。
「」と小さく呟いたところを見ると、ようやくこちらを認識したらしい。
そして、彼は再びゆっくりと唇を動かすと。
ぽつりと言った。

「遅い」





だからうちは宿屋じゃないんだっつの。





ようやく自宅に入ることが出来、蓮の重い体を引き摺るようにして何とか寝室まで運ぶと、ベッドに放り投げてやった。
ベッドを使わせてやるのだ、これぐらい当然だろう。
大体ひとが死ぬ気で仕事を片付けてきて、さあ今日はゆっくり寝ようと帰って来た矢先に「遅い」とか、一体どういう教育受けてきたんだお前は!

「ああもう…お酒臭いし、何か、香水臭い」

彼を運んだせいか、何となく自分からもそんな匂いがするような気がする。
これは、もう寝る前にシャワーを浴びてしまった方がいいかもしれない。
初っ端から予定を狂わされ、は唇を尖らせながらベッドで眠る彼の顔を見つめた。

顔色は良くないが、とりあえず吐くほど気持ちが悪い訳ではなさそうだ。
確か棚の引き出しの中に、二日酔いの薬があったはず。
それと、そういえばちょうどミネラルウォーターが冷蔵庫に……っておい。

(これじゃ私、完璧にこいつの世話係じゃない)

私は貴方のお母さんでも、ましてや彼女でも何でもないんだからねー!
誰も聞いてない空間で、何となく叫びたくなる。

そう、
彼女、とか、そんな関係じゃ、ないんだから。
ただの幼馴染で。
それだけ、なんだから。

…大体彼に恋人はいないのだろうか。
外見は悪くないし、まあそこそこ気も利くし…お客さんの中にも、本気で彼に惚れてしまう人だって、いるんじゃないだろうか。

そこまで考えて、は首を振った。
やめよ。そんなこと詮索したって、意味の無いことだし。
大体こんな時間に幼馴染の家に駆け込むような男に、恋人作るような甲斐性もないだろう。というか、いるならそっちに行けよ。

「あーあ…シャワー浴びるか」

しわくちゃのジャケットをハンガーに掛け(勿論私の物だ)、タオルを出して準備をしていたとき。

微かな、振動音。
何かが空気を震わせる音。

「…あ、ケータイか」

そう思って自分の携帯電話をバッグから取り出すが、画面は真っ暗なまま。
…アレ? 私のじゃ、ない?

ということは、目の前でベッドに横たわっている彼の物、だろうか。

「………あーもうっ」

しばらく無視していれば止むだろうとも思ったが、それは中々止まなかった。
これだけ長いということは確実に電話のはず。
どうにも落ち着かず、は心を決めて蓮の上着のポケットから携帯電話を取り出した。

別に出る気はない。
ただ少しは振動音も小さくなるんじゃないかと、そんなどうでもいい考えからだった。

だが、がそれを手に取った瞬間。
ぷつりと振動音は切れた。

「え」

どうやら電話を掛けてきた相手は、諦めたらしい。
勿論それは向こうの動作だから、此方の事情なんて関係ある訳がないのだけど。
何となく、自分が手にとってしまったから切れた、そんな風に思ってしまって。
微かな罪悪感。

「―――って、うおぅ!?」

突然、今度はの携帯電話が震えだした。
マナーモードにしているから音楽は流れないが、膝の上に置いていた為びくりと身体が縮こまってしまった。

「…だれだろ」

恐る恐る、ぱかりと開いてみる。
するとそこには。

「………あ」

の高校のときの先輩で。
今目の前で眠りこけている幼馴染の、同学年で。
そしてそんな幼馴染の、職場の上司でもある男の名前があった。

ピ、と音が鳴る。

「…もしもし。どうしたんですか、ハオ先輩」
『あ、良かった。突然ごめんね、こんな朝早くから』
「いえいえ。…それより、どうかしたんですか?」

受話器の向こうからは、男性にしてはやや高めの声。
間違いない。先輩だ。

『いや、昨日蓮とアフター行った女性が、結構飲む方だったから…心配になって電話してみたんだけど、どうやら案の定君の所に行ったようだね』
「来ちゃいましたよ、お酒の匂いぷんぷんさせて。…オーナーとしてちゃんと教育して下さいよ!」
『ごめんね』

確かに声音は申し訳なさそうだけれど、微かに笑い声が混じっている。
こっちは休日削られているのに、もう!

『、今日仕事は?』
「休みですよ。徹夜明けですけど」
『あーそれは本当に悪かったな…。でも、実は今日そいつも休みなんだ。だから…迷惑をかけているのは重々承知の上なんだけど、そいつの介抱頼まれてくれないかな?』
「え……」
『いやまあ確かに、これは上司である僕の責任でもあるんだけど…君が僕らの仕事に苦手意識持ってるのは、わかってるよ。でもほら、あの無愛想なあいつもさ、この仕事始めてからちょっとは物腰が柔らかくなったっていうか、優しくなった気がしない?』
「…年がら年中、女の人を相手にしていれば扱いもわかってくるでしょうね」
『そう言わないで、代わりに今度奢るからさ…君が前に行きたがっていたバー、案内させて貰うよ』
「………」
『ね、』

「―――人のいないところで何を誘っている貴様は」





……あ。

ハオは思わず携帯電話を耳から外して、画面を見つめた。
表示されているのは、変わらず後輩の番号。
…だがこの、いかにも機嫌の悪そうな、地の底から聞こえてくるような声は。

「やあ蓮。お目覚めかい」
『…何の用だ』
「泥酔した従業員の後始末だよ。あのあと、ちゃんと彼女を送ったのかい?」
『当たり前だ』
「…まったく…そのあとは予想的中、やっぱりの家に行くとはね」
『……切るぞ』
「ああもー、話をちゃんと聞けって」





蓮はフンと鼻を鳴らし、茶化す方が悪い、と内心毒づいた。
その手元には、後ろから口を塞がれじたばたともがく。

『とりあえずさ、蓮。には迷惑かけてること、きちんと自覚しとけよ』
「そんなこと言われるまでもない」
『あーはいはい。じゃあ大人しくケータイを彼女に返してやれ』
「貴様の番号は着信拒否に設定しておく」
『お前が電話に出ないからだろうが。まったく…じゃあにもよろしく言っておいて』
「奢らんでいいからな」
『ハイハイ…』

そうハオが答えるや否や、ぷつんと蓮は電話を切った。



「あー…ったく、解雇するぞ」

切れた携帯電話を見つめ、ハオはため息をついた。
確かに店ではそこそこの人気は取っているが…オーナーに対するこの態度は何だ。

(ま、確かにあの客を回したのは、僕だけど)

慣れない新人では手が余りそうだったから、それとなく、経験を積んだ彼に指名が入るよう画策したのだけれど。

「それにしても、も苦労が絶えないねえ」

あんな小難しい男に気に入られちゃうなんてさ。
どうせなら、僕にしておけばよかったのに。
…あ、やっぱ今度奢ってあげよう。

ハオは悪戯っぽい笑みを浮かべ、携帯電話を閉じた。



「っぷは、ちょっと蓮! いきなり何するの!」
「…何を話していたんだ」
「へ?」

ようやく解放され、詰め寄った は 、目の前の彼から漂う明らかに不機嫌な空気に鼻白んだ。
なに怒ってるんだこいつは。

「…あいつと、何を話していた」
「え…だ、だから、酔っ払った蓮の世話とか! あと」
「あいつはお前を誘う気満々だったようだが」
「単なるお礼でしょ! 出来の悪い部下を持つと苦労するのよ上司も!」

そう…例えば今の職場での私みたいに!

しかし蓮のむすっとした顔は直らない。
どころか益々眉間の皺が深くなる。

「他には」
「い、いやだから…」
「―――俺がこの仕事をやめればいいのか」
「は…」

何を言ってるんですかこの人は。

しかしそんなの疑問をよそに、蓮は呟く。

「俺がもっと酒に強くなればいいのか。もっと割れ物を扱うように接すればいいのか。もっと優しく、迷惑をかけず、一定の距離を置いて接すればいいのか。或いはこの仕事自体をやめればいいのか」
「ちょ、え? れ、蓮…?」

「…お前は、いつになったら」

例えばこの関係をじれったく感じたことはないのか。
もっと先を望んだことは、ないのか。お前は。


「あ、あの…蓮、さん…?」

彼女が己の仕事に懐疑的なのは、知っていた。
いや、仕事自体は別にいいのだろう。彼女だって今では立派な社会人だ、接客業だって経験してきている。
ただ『それを身に着けている自分自身』に対して、懐疑的だと言った方が正しいのだろう。

例えばどれだけ優しくしても。
例えばどれだけ甘やかしても。

きっとは、本気に受け取らない。
つまりは、そういうこと。

(…それにしたって)

いい加減気付けこの鈍感娘が。

誰が好きでもない女のところへ、二日酔いのまま転がり込むか。

「あー…」

まだ頭がくらくらしている。
先ほど、上司がまた要らぬ口を聞いているようだったから、慌てて携帯電話を彼女の手から奪い取ったのだが。
それが災いしてか、何となく胸のむかつきが鮮明になった気がした。

黙りこくってしまった蓮を、不安そうに覗き込む。

「れ、蓮?」
「…吐く」
「え、うそ、ちょっとここはだめー!」

―――蓮のげっそりした声に、は慌てて立ち上がり、洗面所まで連れて行ってやった。
そのあと急いでキッチンへ行って、冷蔵庫からペットボトルを取り出し、二日酔いの薬と共に洗面所へと駆け戻る。

しばらく経ったあと、の部屋には、幾分顔色の優れた蓮と、少しだけ中身の減ったペットボトルを抱えるの姿があった。

「今日休みなんでしょ。ゆっくり寝てていいよ」
「…お前も徹夜明けなんだろう」
「私はいいよ。居間のソファで寝る」

病人をベッドから追い出すなんてことはできないし、と肩を竦めたに向かってすかさず、病人じゃないと言い返した蓮だったが。
まだ多少酔いが残っているのか、すぐに口を噤んで、大人しくベッドに潜り込んだ。

「…おい、」
「なんですか」

ごそごそと、今度こそシャワーを浴びる準備をしているに。
ベッドの中から蓮は言う。

「昼飯は、食う」
「……私に作れと」
「そうだ」

それだけ言うと、くるりと背中を向けてしまった。

な…なんだそれー!
傲岸不遜にも程があるぞ!
とは言え、早速睡眠状態に入った彼を、今更睨んだところで効く筈もない。

「……はいはい、作ればいいんでしょ作れば!」

ばーか!だなんて子供じみた悪態は呑み込んで。
は着替えとタオルを抱え、心なし荒い足取りで自分の寝室をあとにした。

(だから私は奥さんかっつーの!)

浴室へ向かう前に、キッチンに行って、ミネラルウォーターのペットボトルを再び冷蔵庫へしまう。
少しだけぬるくなった飲料水。

「……ふん、だ」

お酒に酔ったときにはこれが一番いいのは、知っていた。
此処に来た時の彼は、いつも多少なりとも酒は入っていたし。

………私は酔った時だからって別に、烏龍茶でもいいし蛇口捻れば水なんて幾らでも出てくる訳で。

でも
でも、ただ。

たまには、ミネラルウォーターもいいんじゃないかなって、思った、だけだ。

そして、そこへたまたま、酔っ払った彼がうちに来ただけだ。
それだけ、なのだから。

『昼飯は、食う』

それはつまり、午後までこの家にいるということ。

「………」

まったくもう。
………仕方ない、作ってやろう。

「お昼ご飯、何にしようかな」

少しだけ胸が踊っているのは。
きっと寝不足のせいだ。







空回り恋歌

(不器用な気持ち、不器用な態度)
(でもそんなの、お互い様)